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裏・鷲谷ゼミ

白目大学 会社学部 表現メディア学科

先生よりスゴイ卒業生が出るのが良いゼミだ

良いゼミってそもそも何なのよ

ゼミをなんかのお店や工場だとおもえば、学生という原材料を仕入れて社会人として送り出す仕掛けに他ならないよね。

 

じゃあ、良いお店、良い工場ってのは、なにかって話なんだけど…

看板だけが立派なお店、工場長が有名な工場は、決して良いお店、良い工場ではないよね。

やっぱり、売られてる商品、出荷される製品がすばらしくて、評判であってこそ、そのお店や工場は良いものだっていえるでしょう。

 

だから、すばらしい卒業生、評判になる卒業生が出てこそ、そのゼミは良いゼミだって言えると思う。

 

目標を顕在化し自覚させる

私は、学部(文学部の日本文学専修でした)の時は、ゼミには入れなかった。

卒論も、2回ぐらい指導の先生と簡単な面談をしただけだった。

今、振り返ると、卒論はひどい内容で…私が採点する立場だったら、間違いなくC評価を付ける。論文と関係ない雑談・小ネタばっかりで、論文の体をなしてない、エッセイみたいな代物だったから…。

でも、指導の先生(佐々木雅發先生という、近代文学漱石の研究者でした)は、優しくて「こういうテーマなら、もっと研究を続けて、大学院へ行かなくちゃね…」と励ましてくれた。

その時は留年を重ねてて、卒業できるかもわからないし、卒業後のことも何も決まってない状況だったけど、佐々木先生に言われた、大学院ってのが、何か、次の目標みたいな感じになっちゃった。全然現実味のない、目標というのもおこがましい大それた話だったけれど…。

冷静に考えてみれば、自分自身、学生を続けていたかった気持ちがどこかにあったんだと思う。そういう気持ちと、先生のアドバイスが重なって、大学院へ行くことが、自分の目標になったんだろう。

だから、先生ってのは、接している学生のまだ顕在化されていない思いをくみ取り、次の目標として自覚を持つ手伝いをすることが、できるかどうか、それが大切なのだと考える。

 

ゼミのその先へ

卒論のテーマとはだいぶ変わってしまったけれど、社会人をしばらく経験した後で、経営学の大学院に進んだ。仕事で映像制作のデジタル化・ネット化をやっていたのだけれど、上流部分の資金や企画の調達のデジタル化・ネット化ができないか、下流部分の配信や売買のデジタル化・ネット化ができないかというのが、進学の目的だった。

そこで、所属したのがネットビジネスや電子マネーの研究をしていた岩村充先生のゼミだった。岩村先生は、元日銀マンで、経済や金融の専門家だった。個人的に面白かったのが色々なものの「価値」を経済の視点から解き明かしてくれることだった。

たとえば、「就きたい仕事に就かない方が良い」という話では、「君が就きたい仕事は、人気があって大勢の人が就きたい、就きたいという仕事だろ。そうすると、自分はあんなこともできます、こんなこともできます。安い給料でやります、もっと安くてもやります…と、自分の安売り競争になってしまうだろ。本来の価値より自分を安く売ることになっちゃうから損だぞ」などという話は個人的には目から鱗が落ちた。

岩村先生は、「高校の先生は、良い高校の先生を育てることを目標として教壇に立っているわけではない。大学の先生も、良い大学の先生を育てることを目標とするわけでは必ずしもない。私も、自分自身と同類の人間を育てることを使命とは考えていない」とも言っていた。私も同感だ。

ドリルを買う人が欲しいのは穴であるように、ゼミで学ぶ内容そのものに価値があるのではなく、学んだ過程で得た経験や人間関係、学んだ内容を使ったその先にこそゼミの本当の価値があるのだと私は思っている。

 

みんなには時間という絶対的なアドバンテージがある

ゼミ生のみんなには、私にはない若さがある。これは、もう逆立ちしても私は敵わない。

若さ、すなわち、時間というものは、絶対的なアドバンテージだ。

一人一人、そのアドバンテージを活かして、目標を持ち、私ができないこと(個性と言い換えても良い)を学校の外でどんどん増やしていって欲しいなと思う。

結果はともかく、所属・出身のゼミ生みんなが、その気概を持つとき、ゼミの価値は高まり、良いゼミと言えるのだと思う。